お陰様で1週間に1万件以上のアクセスをして頂いているアタシの新作映像ブログ「此岸、彼岸」http://jisin.yukasekiguchi.com
アクセスして下さっている皆様〜
本当に深謝あるのみ〜っす
ありがとう〜ございま〜す
実は、正直にここで告白しちゃうけど、この映像ブログでも、ホンマのリアル・タイムというより、やや時差が、ありんす。今は、9月(言わなくてもそ〜だ〜)下旬になりつつあるところだども、アップされている動画は、7〜8月辺りだもんネ〜
で、当然ながら、母との生活には、常に<今>のドラマが、ある訳で、ここら辺りは、結構、ツイッターで呟いているんだ〜http://twitter.com/nautilus528
お世話になっている主任ケアマネの西迫さんなんか、日々、アタシのツイッターの呟きをチェックしてくれていて「今日の母」を確認してくれてんだね〜いやあ、こういう効率のいいツイッターの使い方もあんだぜ〜
で、この19日の日曜日のコト。ホント、久しぶりに(4ヶ月ブリ!!)に西迫さんが、
我が家を訪問してくれまひた〜
この猛暑で、母の最後の外出は、先月の8月21日。高3の姪っ子の定期演奏会の時以来、家に引き蘢っている。ほぼ1ヶ月になりますがな〜
アルツハイマー病も確実に進んでいるんだ〜
混乱と色々な事が、理解不能になることも多く、何よりも本人が、ツラそうだし、傍で生活をしているアタシも、ひたすら切ない・・・

冬になる前に、寒くなる前に、何とか、母を連れ出そうという
算段ですがな。しかも、アタシが誘うということは、もうやっちゃったカンありで、今や、アタシの誘いには、全く反応しなくなっちまったんだよ〜
だから、医者にも連れだせな〜い
そんな母との現況を西迫さんに泣きついたところ(撮影したよっ)、やさしい西迫さんは、例えば、1週間に1回位でいいから、地域包括センターにボランティアとして来て頂くのは、どうですか、とあくまでも母の立場や、性格を考えてくれた提案をしてくれた。つまり、洗濯物をたたんだり、お茶出しをしたり、みたいなことをするんやね〜
スゴクいいんじゃないんでしょーか。
家以外に自分の居場所を見つけてくれたら、と取りあえず、この提案を母にしましょ、でも、娘のアタシが、言うより、西迫さんの方が、いいんじゃな〜いというシナリオで本人に話しをしました。
結果、お見事っ
玉砕しちゃった〜ガビーンだよっ 
断固として嫌がる母、レンズを通して見る母は、それは、それは、老いの一徹。頑に提案を断り、遂に西迫さんは、今回は、一旦引き上げることに・・・
でも、ね、ここら辺りが、ドキュメンタリー映画の妙なのね。
そんな母を見ていて、この新作映画について改めて考える、っつうか、何よりも映画が、新しい角を曲がった音を聞いちゃったんだよ〜
キタ、キタ、キタ、キタ〜ってなカンジでさっ。
つまり、1年間、母を撮影してきたアタシは、かなり煮詰まってきているんだと思うの。
映画前半のクライマックスは、<母が、アルツハイマー病である>というお医者さんの所見だったんだけど、この後、実は、母の日常生活をそれなりにオモシロく、あるいは、切なく撮りつつ、でも、これだけじゃ、映画としてツマンナイなあ、なんて考え始めていたからね〜
いや、そりゃあ、親御さんをアルツハイマー病で亡くされた、所謂介護の諸先輩達は、これから起こるであろうハナシをイッパイしてくれて、親が、風呂場で、部屋で、クソまみれになった時の絶望感なんぞ、教えて下さる。いや、とてもありがたいっすよ〜
アタシの心の準備が、出来るからさ〜
そして、精神障害者手帳の申請、成人後見人の準備をして、家庭裁判所に行くところなどもを撮ったら、というご指摘。もっちろん、撮りましょ、撮りましょ。
でも、それって<映画の深さ>としては、ど〜よってコトも考えるんだ〜ね。
つまり、アルツハイマー病の患者/家族に対して<こうして、対処した方がいい>っつう、ハウ・ツーもんだよね〜
それだけじゃ、作品には、ならんっ
いや、正確には、アタシが、求めている作品には、ならんっつうことだわさ。
つまり、今のアタシは、アタシの大好きなドキュメンタリー映画「全身小説家」で、原一男監督が、撮影しながら考えていたコトに似ているんじゃないかって思う。
原一男は、小説家、井上光晴の頭からどうやって、フィクションが生まれるのか、撮りたかったし、何よりも知りたかった。ところが、カメラの前の井上光晴は、ガンに侵され、そのことを否応なく撮影しながら、いや、オレは、ガンに侵された小説家を撮りたい訳じゃないってもがくワケっす。(原監督、手前勝手な解釈ですが、いいでしょーかってもう、書いちゃった。
)
アタシは、母のアルツハイマー病の進行状態を撮りつつ、これってどういうことなんじゃろかって、ずうううっと考えているワケ。つまり、母のアルツハイマー病を通して見えて来るモノは、ナンなのか。これを考えて、考えて、考えてきているんだ〜そこが、映画の核の部分だ、という確信が、あるからね。
それが、今回の母の一言で、ハッと思ったの。「私の人生は、今まで自分を殺して生きてきた。」
う〜む、やっぱり、そこに来ちゃったか〜
そ、母には、もっと被写体として、人となりに迫らないとダメってことですな。母の<憤怒の根源>やら<人生に対する失望感>そして、人生の終局にきて、ど〜してこうも引き籠っちゃうのか。だって、足腰は、ひょっとしたら、アタシより達者なんすよ〜、母は!
ソコに迫らないと、単なる<アルツハイマー病患者の一例の記録映画>になっちゃう。
でも、この母の心の深淵を覗きに行くのは、娘としてアタシも返り血をタップリ浴びるワケだから、いやあ、更なる覚悟が、必要だ〜
ここは、監督のアタシにしがみつく他ないんだろ〜な・・・ああ、悩みは、益々大きいなあ。
自分が行きたくないところにいつも道は、用意される。これが、アタシのドキュメンタリー映画だわ〜
アクセスして下さっている皆様〜
本当に深謝あるのみ〜っす
実は、正直にここで告白しちゃうけど、この映像ブログでも、ホンマのリアル・タイムというより、やや時差が、ありんす。今は、9月(言わなくてもそ〜だ〜)下旬になりつつあるところだども、アップされている動画は、7〜8月辺りだもんネ〜
で、当然ながら、母との生活には、常に<今>のドラマが、ある訳で、ここら辺りは、結構、ツイッターで呟いているんだ〜http://twitter.com/nautilus528
お世話になっている主任ケアマネの西迫さんなんか、日々、アタシのツイッターの呟きをチェックしてくれていて「今日の母」を確認してくれてんだね〜いやあ、こういう効率のいいツイッターの使い方もあんだぜ〜
で、この19日の日曜日のコト。ホント、久しぶりに(4ヶ月ブリ!!)に西迫さんが、
この猛暑で、母の最後の外出は、先月の8月21日。高3の姪っ子の定期演奏会の時以来、家に引き蘢っている。ほぼ1ヶ月になりますがな〜
混乱と色々な事が、理解不能になることも多く、何よりも本人が、ツラそうだし、傍で生活をしているアタシも、ひたすら切ない・・・
冬になる前に、寒くなる前に、何とか、母を連れ出そうという
そんな母との現況を西迫さんに泣きついたところ(撮影したよっ)、やさしい西迫さんは、例えば、1週間に1回位でいいから、地域包括センターにボランティアとして来て頂くのは、どうですか、とあくまでも母の立場や、性格を考えてくれた提案をしてくれた。つまり、洗濯物をたたんだり、お茶出しをしたり、みたいなことをするんやね〜
スゴクいいんじゃないんでしょーか。
家以外に自分の居場所を見つけてくれたら、と取りあえず、この提案を母にしましょ、でも、娘のアタシが、言うより、西迫さんの方が、いいんじゃな〜いというシナリオで本人に話しをしました。
結果、お見事っ
断固として嫌がる母、レンズを通して見る母は、それは、それは、老いの一徹。頑に提案を断り、遂に西迫さんは、今回は、一旦引き上げることに・・・
でも、ね、ここら辺りが、ドキュメンタリー映画の妙なのね。
そんな母を見ていて、この新作映画について改めて考える、っつうか、何よりも映画が、新しい角を曲がった音を聞いちゃったんだよ〜
キタ、キタ、キタ、キタ〜ってなカンジでさっ。
つまり、1年間、母を撮影してきたアタシは、かなり煮詰まってきているんだと思うの。
映画前半のクライマックスは、<母が、アルツハイマー病である>というお医者さんの所見だったんだけど、この後、実は、母の日常生活をそれなりにオモシロく、あるいは、切なく撮りつつ、でも、これだけじゃ、映画としてツマンナイなあ、なんて考え始めていたからね〜
いや、そりゃあ、親御さんをアルツハイマー病で亡くされた、所謂介護の諸先輩達は、これから起こるであろうハナシをイッパイしてくれて、親が、風呂場で、部屋で、クソまみれになった時の絶望感なんぞ、教えて下さる。いや、とてもありがたいっすよ〜
そして、精神障害者手帳の申請、成人後見人の準備をして、家庭裁判所に行くところなどもを撮ったら、というご指摘。もっちろん、撮りましょ、撮りましょ。
でも、それって<映画の深さ>としては、ど〜よってコトも考えるんだ〜ね。
つまり、アルツハイマー病の患者/家族に対して<こうして、対処した方がいい>っつう、ハウ・ツーもんだよね〜
つまり、今のアタシは、アタシの大好きなドキュメンタリー映画「全身小説家」で、原一男監督が、撮影しながら考えていたコトに似ているんじゃないかって思う。
原一男は、小説家、井上光晴の頭からどうやって、フィクションが生まれるのか、撮りたかったし、何よりも知りたかった。ところが、カメラの前の井上光晴は、ガンに侵され、そのことを否応なく撮影しながら、いや、オレは、ガンに侵された小説家を撮りたい訳じゃないってもがくワケっす。(原監督、手前勝手な解釈ですが、いいでしょーかってもう、書いちゃった。
アタシは、母のアルツハイマー病の進行状態を撮りつつ、これってどういうことなんじゃろかって、ずうううっと考えているワケ。つまり、母のアルツハイマー病を通して見えて来るモノは、ナンなのか。これを考えて、考えて、考えてきているんだ〜そこが、映画の核の部分だ、という確信が、あるからね。
それが、今回の母の一言で、ハッと思ったの。「私の人生は、今まで自分を殺して生きてきた。」
う〜む、やっぱり、そこに来ちゃったか〜
そ、母には、もっと被写体として、人となりに迫らないとダメってことですな。母の<憤怒の根源>やら<人生に対する失望感>そして、人生の終局にきて、ど〜してこうも引き籠っちゃうのか。だって、足腰は、ひょっとしたら、アタシより達者なんすよ〜、母は!
ソコに迫らないと、単なる<アルツハイマー病患者の一例の記録映画>になっちゃう。
でも、この母の心の深淵を覗きに行くのは、娘としてアタシも返り血をタップリ浴びるワケだから、いやあ、更なる覚悟が、必要だ〜
ここは、監督のアタシにしがみつく他ないんだろ〜な・・・ああ、悩みは、益々大きいなあ。
自分が行きたくないところにいつも道は、用意される。これが、アタシのドキュメンタリー映画だわ〜



