やっと朝晩は、秋ら〜しく(?)なって参りやした〜
こうして、アルツハイマー病の母と暮らしながら、そんな母に向かってカメラを回しながら、ふっと我が人生を振り返ったりするざます〜

いやあ、良くも、悪くも
<晴天の霹靂>の人生を生きているなあ、って思っちゃう。
顕在意識では、映画監督になるとは、夢にも思わなかった人間が、こうして今、世には、映画監督として出て、取材なんぞして頂いている身分。
信じられな〜い
コレ、本音っす。

ナニが、どうなって、この天職と出合っちゃったのか。
ここまで、やって来るには、本当に色々な人達に
インスパイアーされ、応援され、時には、踏みつけられ、差別され、でも踏みつけて、差別してくれた人達にも深〜く感謝だよ。インスパイアーして、応援して下さっている人達には、足を向けて寝られませんっ

アタシの人生に関わって下さった皆さん全員は、アタシの人となりの形成に大きく役立ったもん。
ああ、アタシの人生、修羅場は、とっても大切ざんす〜
シュラの人生=アタシ=艱難、汝を玉にする、だ〜ね!
でも、とってもステキなコトが、アタシの映画人生の始まりにあったんだ〜

今まで書きませんでしたが、アタシの映画人生の扉を開ける(コジ開けて下さった)のを助けて下さったのは、何を隠そう、亡くなられた
川喜田かしこ夫人なのでーす

(C) 川喜田記念映画財団
かしこ夫人は、夫であり、社長の長政氏とともに、東和映画株式会社の副社長として、数々の名作を日本に紹介され、その後、外国映画の輸入から、日本映画の海外普及へと移り、私財を投げ打って日本映画の名作の収集と保存をされたんだよ〜
ベルリン、カンヌ、ヴェネチアを初め、国際映画祭の審査員を26回も務め、マダム・カワキタの名前は世界中の映画人に親しまれているの。
そして、話しは、1980年代中半、アタシは、
第1回監督作品「戦場の女たち」を作るべく、パプア・ニューギニアでフィールド・ワークをしながら、もがき苦しんでいた時に、オーストラリアの配給会社の人からかしこ夫人を紹介されました。
かしこ夫人は、かくもお忙しいご身分だったのに、学生に毛が生えた程度のアタシにも会ってくださり、「戦場の女たち」の構想をじっくり聞いた後、「是非、おやりなさい。」と激励してくださったんだ〜
いよいよ、日本を離れ、またパプア・ニューギニアに戻るという数日前、かしこ夫人の秘書だった青山さんからお電話

を頂いた。
「何じゃろな〜」なんて軽〜い気持ちで、かしこ夫人の、とても品のいい銀座の仕事部屋を再度、訪れたアタシは、いやあ、驚いたの、何のって!
今だってその時の気持ちを鮮明に思い出すことが、出きる位だよ〜
晴天のヘキレキ、ビックリ仰天ってこのコトだあああ

かしこ夫人は、アタシに30万円を手渡して下さったのです

「取材の役にお立てなさい。」とおっしゃりながらー。
これって、まだ映画になるかどうかも分からない時ですよ〜
つまり、
監督になる前のアタシに、ですよ〜
しかも、領収書もない、
かしこ夫人のポケット・マネーですよ〜
今思い出しても、感涙しちゃう・・・
当時の30万円は、大金で、受け取った手が、震えたことも覚えている。

でも、ね、30万円という大金もさることながら、かしこ夫人の心からの応援が、ジ〜ンとアタシの心に響いたんだ〜。
アタシは、大感動し、「戦場の女たち」を絶対に何があっても、何年かかっても作るぞ、という
並々ならぬ覚悟が、その場で出来たんだよ〜
今、振り返っても、このかしこ夫人の行動が、いかにスゴイことか、分かる。
映画の始めって、本当に誰もお金、出してくれないもの。これって、映画監督の宿命だ〜ね。
1989年、遂に「戦場の女たち」は、完成した。(丸5年かかった!)かしこ夫人は、東和の試写室で見てくださり、絶賛、チラシにもコメントを寄せて下さった。海外で数々の賞を取った時も、とても喜んで下さった。
そう、アタシの
映画監督人生を後押してくださった第一号の川喜田かしこ夫人のご恩は、生涯忘れられませんっ

だから、映画監督は、天命、死ぬまで続ける所存ですっ

ああ、アタシも少しでイイから、かしこ夫人のようにありたい、と心より思います。
だから、50歳を過ぎた今、若き映画人の卵たちを応援しなきゃ、って思う。(でも、万年金欠っす、ゴメン。
その代わり、アタシの気持ちと知識と体験は、惜しみなく晒して与えますから〜そう思って、オーストラリアでは、いつだって本気で真剣に全力で、大学でも映画学校でも、教えてきたんだ〜お陰で、教え子達は、世界中におりやす。

日本でもそういう場が、あったらいいな!)
こんな風に、ややセンチメンタルに過去を振り返り、考えるのも、秋だから?
ま、そういうコトにしておきましょ。